古典常識「大内裏」

今日は大内裏についてお話をいたします。
大内裏というのは平安京における官庁街、役所の街です。
今でいうと霞ヶ関に当たるんでしょうか。

これが平安京図になりますが、
北から南へ、あるいは東西へ、と碁盤の目状になっています。
この碁盤の目状に都を設計する事を条里制と言いますが、
この北から南に真ん中に走っている大きな道を朱雀大路と言います。
ここの一番南には羅城門あるいは、羅生門と言われる門があって、
そこから北に向かって大内裏に向かって真っ直ぐな道が走っています。
皆さんご存知の芥川の羅生門というのはまさにここが舞台だった訳ですが、
都からすれば随分南の端だという事です。
そこからずっと真っ直ぐ都のセンターになるのが朱雀大路ですが、
右京というのは低湿地帯だったというのもあって早くに廃れてしまって、
都の中心は左京側になったというのは日本史で学習した通りです。
ちなみに、正面を見て右手を左京、左手を右京というのは
これは天子南面すと言いますが、中国では皇帝は北極星を背にして常に南側を向いています。
ですから、南を向いている天皇から見て右手にあるので西側を右京、東側を左京と言います。
さて、それはともかくこの二条から北の一角、大内裏について今度は細かく見て参りましょう。

こちらが大内裏の図になります。
大内裏というのは先ほども申しましたように、
当時の官庁街、役所が並んでいる街という事になります。
南から朱雀門という朱雀大路のさっきの羅城門からずっと北に朱雀大路を通って行くと、
どんつきに朱雀門という門が一番南にあります。
朱雀門から入って行って正面に見えるのが、八省院とか朝堂院と言われるものです。
これはあんまり古文ではたくさん出てくる場所ではありません。
儀式なんかでは出てきますが、日常の政務というのは
平安時代には内裏の中の清涼殿で行われるようになってきます。
ですので、大きな儀式、天皇が即位するであるとかそうした儀式では
八省院を使いますが、メインでは使われなくなっていきます。
ちなみにこの八省院の入り口の門が、いわゆる応天門になります。
例の応天門の変という大きな平安時代に事件がありますが、それはこちらの門になります。

いわゆる中央官庁の役所がだーっとここに並んでいるという事になります。
学校の例えば大鏡なんかを読んでいくというような場面では
是非この役所の名前が出てくると思います。
こうした大内裏図というのは必ず国語便覧載っていますので、
眺めながらどんなふうに人が出入りしていたのかというのを
確認しながら読んでいく、という癖を付けて頂けると
イメージが湧きやすいんじゃないかないう所です。
ちなみにちょうどこの南北のサイズ感としては、
南北で1394メーター、1.3キロぐらいです。
東西で1160メーター、1.2キロくらいです。
1.2×1.3ぐらいのサイズ感だと理解して頂けるといいんじゃないでしょうか。

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